体験会の会場に着いた。
ここまで来ると、さすがに少し緊張する。
とはいっても、私はまだ「ちょっと体験してみるだけ」という気持ちだった。
水泳の練習もした。
市民プールにも5回くらい行った。
自転車にも一度乗った。
だから、まあ何とかなるだろう。
そんな軽い気持ちで会場に来た。
ところが、そこで私は改めて、とんでもない数字を目にすることになる。
スイム800m。
800m。
私は、その数字を見て固まった。
「……800?」
今ならまぁまぁあるね、と思うだろう。
でも当時の私にとって、この800という数字は、とんでもない数字だった。
何しろ私は25mも泳げない。
25mでも大変なのに、800mである。
25mの32倍。
「32倍か……」
そんな計算をしている場合ではない。
そもそも25mを泳ぎ切れるかどうか分からない人間が、800mを泳ぐことになっている。
1500m走れない人に、
「今日は42.195kmです」
と言うのと同じようなものだ。
私は完全に場違いだった。
しかも、さらに私を驚かせたことがあった。
水泳のコースを見ると、一つのコースを一人で使うわけではない。
なんと、3人くらいが同時に泳ぐ。
「えっ?」
私は思わず周りを見た。
これ、普通なの?
一つのコースに3人?
私は25mも泳げない。
そんな人間が、他の人と同じコースに入って泳ぐ。
しかも800m。
もう、何が何だか分からない。
私はランナーなので、ランニングなら何となく分かる。
大会で大勢の人が同時にスタートする。
それは普通だ。
でも、水の中は違う。
泳いでいる人の横を泳ぐ。
前に人がいる。
後ろから人が来る。
折り返した人が、前からやってくる。
自分が遅かったらどうなるんだ?
ぶつからないのか?
邪魔にならないのか?
そもそも、コースの途中で立ったらどうなるのか?
考えれば考えるほど、訳が分からなくなってきた。
そして私は、あることに気づいた。
逃げたい。
もう、帰りたい。
ここまで来ておいて何だが、今ならまだ帰れる。
「ちょっと用事ができました」
「体調が悪くなりました」
何か適当な理由をつけて帰ってしまえばいい。
Yさんには後で、
「やっぱり無理でした」
と言えばいい。
そもそも私は何度も「無理」と言っていたではないか。
だから帰っても誰も責めない……はずだ。
ところが、そんなことを考えている間にも準備は進んでいく。
周りの人たちは慣れた様子で準備している。
私は、その雰囲気についていくしかない。
そして気がつけば――
私は水の中にいた。
……しまった。
もう逃げられない。
さっきまで「帰ろうかな」と思っていたのに、もう水の中である。
しかも周りには、普通に泳げそうな人たちがいる。
私は水の中で、妙に落ち着かない気持ちになっていた。
「本当に800m泳ぐのか……」
頭の中で、もう一度その数字が浮かぶ。
800m。
私は25mすらまともに泳げない。
その男が、これから800m泳ぐ。
どう考えてもおかしい。
体験会、というから来たのにこの現実。
でも、もう水の中だ。
ここまで来てしまった以上、やるしかない。
私は覚悟を決めた。
いや、覚悟を決めたというより、
逃げるタイミングを完全に失った。
そして、いよいよスタートの時が近づいてきた。
この時の私は、まだ知らなかった。
自分が泳げるのか、泳げないのか。
800mどころか、次の25mまで行けるのか。
それすら分からない。
ただ一つ分かっていたのは、
「もう始まってしまう」
ということだった。
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