私の横を、平泳ぎの選手がスーッと抜いていった。
「えっ、平泳ぎ……?」
一瞬、目を疑った。
私はクロール。
相手は平泳ぎ。
普通に考えれば、クロールのほうが速い。
ところが、その平泳ぎの選手は、私より明らかに速かった。
あっという間に離れていく。
私は必死にクロールを続けている。
それなのに、平泳ぎに抜かれる。
ちょっとショックだった。
でも、だからといって急に速く泳げるわけでもない。
ここで無理をしたら、途中で泳げなくなる。
そう思って、結局いつものペースに戻った。
ゆっくり。
とにかく、ゆっくり。
2回クロールして呼吸。
また2回。
波が来たら、少し待つ。
苦しくなったら、さらにゆっくり。
もう、速さはどうでもよくなってきた。
とにかく前へ進めばいい。
そう考えることにした。
周りの選手は、どんどん先へ行ってしまう。
最初は、
「自分は最後なのではないか」
と気になっていた。
でも、しばらくすると、それすら気にならなくなった。
どうせ速く泳げない。
だったら、自分のペースで泳ぐしかない。
プールで練習していたときと同じように、淡々と腕を回す。
ただし、プールとは違う。
壁がない。
底も見えない。
波がある。
そして、時々クラゲがいる。
それでも、ウェットスーツのおかげで身体は沈まない。
これは本当に助かった。
海水とウェットスーツの浮力で、身体を浮かせていること自体には、それほど力を使わなくていい。
あとは泳ぐだけ。
……と言っても、そんなに簡単ではない。
前を確認するために顔を上げる。
すると泳ぎが止まる。
また進む方向を修正する。
そしてまた泳ぐ。
まっすぐ泳げているつもりでも、実際にはかなり曲がっていた。
「まあ、ゴールの方向には進んでいるだろう」
そんな程度だった。
途中で何度か周りを見る。
前にはほとんど選手がいない。
後ろにも、あまり見えない。
完全に取り残された感じがする。
それでも、焦らなかった。
というより、焦ってもどうしようもない。
速く泳ぐ技術がないのだから。
だから、
泳ぐ。
息をする。
泳ぐ。
また息をして時々方向を確認する。
それを繰り返した。
しばらくすると、少しずつ身体が海に慣れてきた。
スタート直後のような恐怖感も薄れてきた。
「意外と何とかなるかもしれない」
そう思い始めた。
もちろん、速くはない。
ものすごく遅い。
でも、止まってはいない。
これが大事だった。
2,000メートルという距離は、最初から考えると途方もない。
だから、距離のことも考えない。
「あと何メートル」
などと考え始めると、長すぎる。
ただ、目の前を少しずつ進む。
その繰り返し。
途中、前方に見覚えのある選手がいた。
以前参加した体験会で一緒だった女性だった。
「あれ、この人……」
そう思って手で合図した。
向こうも私に気づいたのかどうかは分からない。
でも、知っている人が見えたことで、少しだけ安心した。
「自分だけが取り残されているわけじゃない」
そんな気がした。
そして、また泳ぐ。
抜かれる。
また抜かれる。
それでも泳ぐ。
気がつけば、ゴールが近づいてきた。
最後まで速くなることはなかった。
きれいなクロールでもなかった。
海の中で何度も方向を確認しながら、ただひたすら進んだ。
そして、ようやく2,000メートルを泳ぎ終えた。
時計を見る。
53分。
速いのか遅いのか。
そんなことは、もうどうでもよかった。
とにかく、
泳げた。
25メートルも泳げなかった男が、海で2,000メートル泳いだ。
それだけで十分だった。
……と思った。
しかし、トライアスロンは、ここで終わりではない。
むしろ、
ここからが長かった。
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