今から思えば、あの頃の私は、ただの「マラソンを走るおじさん」……
いや、当時はまだ30代だったので、「マラソンを走る普通のサラリーマン」だった。
そもそも私が走り始めたきっかけは、格好いいものではなかった。
30歳を過ぎた頃、久しぶりにスーツを着ようとしたら、ズボンが入らない。
「ん? こんなはずじゃ……」
若い頃には何の問題もなく履いていたスーツのズボンが、明らかにきつい。
そこでようやく、自分の体が少しずつ変わっていることに気づいた。
そこから始まったのがランニングだった。
最初は走ることすらまともにできなかった。
それでも少しずつ走る距離を伸ばし、マラソン大会にも出るようになった。
そして何年もかけて、ようやくフルマラソンを走れるようになった。
もちろん、最初から速かったわけではない。
何度も失敗し、練習して、また失敗する。
爪が取れて練習が出来なかったりもした。
そんな数年を経て、ついに私はフルマラソンで4時間を切った。
「サブ4」
ランナーにとっては、一つの大きな区切りである。
私自身も、
「これでようやく、ちゃんとしたランナーと言ってもいいかな」
くらいには思っていた。
それまでの私は、マラソン以外のことなどほとんど考えていなかった。
走る。
練習する。
大会に出る。
また走る。
そんな生活だった。
ところが、サブ4を達成したその年。
私のところに、思いもよらない話が舞い込んできた。
声を掛けてきたのは、知り合いのYさんだった。
「トライアスロン、やってみません?」
……トライアスロン?
私は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
トライアスロンという言葉くらいは知っている。
泳いで、自転車に乗って、最後に走る競技。
たしかそんな凄い競技がある、という程度。
でも、それは私にとって「見るスポーツ」であって、「自分がやるスポーツ」ではない。
そもそも私は泳げない。
ここが決定的だった。
泳げない人間にとって、水泳という競技は「ちょっと苦手」などというレベルではない。
スタート地点に立つこと自体が、すでに大問題なのだ。
だから私は、当然のように断った。
「いやいや、無理ですよ」
するとYさんは、
「大丈夫ですよ~」
と、あっさり返してくる。
「いや、本当に泳げないんですよ」
「大丈夫、大丈夫」
「いや、25メートルも泳げないですから」
「大丈夫ですよ~」
……この人、本当に話を聞いているのだろうか。
今考えてみると、Yさんはかなり強引だった。
そして、かなり無謀だったと思う。
何度「無理です」と言っても、
「大丈夫ですよ~」
で押し切ろうとする。
普通なら、ここで話は終わるはずだった。
「泳げない人をトライアスロンに誘う」
この時点で、私には意味が分からない。
それでも、Yさんは諦めない。
結局、私は渋々、
「じゃあ、体験だけなら……」
ということになった。
なぜ断り切れなかったのか。
今となっては、それもよく分からない。
ただ、この時の私はまだ、
「トライアスロンをやる」
などとは全く考えていなかった。
あくまでも「体験」である。
ちょっと見てみるだけ。
人数合わせで参加して、ダメだったら仕方ない。
そんな軽い気持ちだった。
何しろ、私は泳げない。
だから、まさか自分が本当にトライアスロンをすることになるなんて、考えられるはずもなかった。
この時の私には、まだ知る由もない。
この「ちょっと体験してみる」が、後になって自分の人生でもかなり印象に残る、とんでもない出来事の入口になっていたことを。
ただ、その時はまだ――
「まあ、泳げないんだから、さすがにトライアスロンなんて無理だろう」
本気でそう思っていた。

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